當院の檀家であり、またいろんな物事に精通し、さらには陸奔舟車(Human Powered Vehicle、人力駆動車) まで発明、製作し試乗までしたという彦根藩士、平石久平次。
彼、そして彼の発明した陸奔舟車の研究では第一人者の小池一介氏からこの度、新しい陸奔舟車についての論文が発表された。
そこでかねてより親交もあり、お世話になっている小池氏の論文を拙寺ホームページに置いて発表の一助を担わせていただくことになった。
このことに仏縁のありがたさを感じ、そして彦根藩士『平石久平次』の名前がなお一層世界に轟くことを心より祈念し、ここに論文の発表をさせていただく。
なお、この論文についての権利は全て小池一介氏に帰属し、転載(一部転載、写真の使用等)は全て禁止する。
令和6年4月8日
住持敬白
以下は小池氏の論文である。
『自転車の起源はどこにあるのか?』というのは、自転車に興味のある人ならば一度は調べてみる興味のつきない事柄である。
私の世代は、さまざまな書物に、『それはド・シヴラック伯爵の創ったセルリフェールだ』と書いてあった。東京、神田にあった交通博物館のパネルにもそのように書いてあった。しかし、後年、フランスの貴族名鑑などをみても、ド・シヴラックなどという伯爵は存在したことがなく、彼が発明したというセレリフェールというのは『快速馬車』のことであることがわかった。
やがて、レオナルド・ダ・ヴインチの手稿の裏に自転車の絵が描かれているというのが発見され、自転車の祖はレオナルド・ダ・ヴインチによって発明された、と言う説が発表され、世界を駆け巡ったが、そのページにはかつては『半円だけが描かれていたものが、何者かによって、あたかもそれが自転車のいたずら書きのように書き足された』という、書き足される前の写真の証拠もみつかって、それらを調査した、当時ハイデルベルグ大学で教鞭をとっていたハンス・レッシング博士の論文によって、レオナルド・ダ・ヴインチの発明と言う説も否定された。現在はドイツのハンス・フォン・ドライスによって考案されたドライジーネをもって、自転車の祖とする説で世界の自転車学者の大勢は落ち着いている。
自転車を英語で言うとBICYCLEで、そのBIは2つを表す。『自転車が2輪で大丈夫だ』と考えたハンス・フォン・ドライスの功績は大きい。旋回中の2輪車では車両と乗員は旋回円の内側に倒れ込むが (傾いているが)、4輪車や3輪車では旋回の円弧の外側へ傾く、つまり、車輪で起こっていることが違うのだ。
そこで、多くの人力を動力とする乗り物(H.P.V.と学術的には言う)は、自転車の祖というところからは遠ざかってしまう。ただ人力で動く物というものであれば、古代ギリシャの昔から人力駆動車(H.P.V.)は存在した。
日本には、ひとり、自転車の発明者に名乗りをあげうる人物が一人いる。それは江戸時代の彦根藩士の学者、平石久平次時光。彼は蘭学に通じ、和算にたくみで、馬術にもたくみだった。その平石久平次時光が『人力の乗り物の図』を残している。
彼が彦根藩に仕える武士で余技で人力の乗り物を創ったと考えるのは正しくない。彼は主君の彦根の地球上の場所を緯度経度で計測している。それは当時使用された観測機械の精度とあわせて考えてみても、かなり正確なものである。ちなみに、船の上で航海士が星や月や太陽の位置から、船の位置を計算して割り出すのには、熟練と現代の数学の知識を使っても30分以上計算結果を得るのにかかる。それを和算でやってのけた平石久平次時光の科学的頭脳は、たいしたものであったことがわかる。
平石久平次の時代、宣教師がもたらして以来の暦は、かなり精度が怪しく、日食なども的確に予測できなかったことから、暦を作り変える必要性が論じられていた。平石久平次は新しい暦の案も提出している。
つまり、彼の発案・製作した人力の乗り物、『陸奔舟車』は、江戸時代のトップクラスの科学者によってうみだされたといえるわけである。
私は昔から平石久平次のことを調べていたのだが、ながらく、その原本にあたることが出来なかった。コロナ・ウィルスCOVID-19が猛威を振るっているなか、平石久平次の250回忌に出席した時、縁あって、平石久平次そのひとの直筆の文書を見ることが出来た。原本を見て、それまで大須賀和美、中日本自動車短期大学教授であった、氏の論文のコピーで、きわめて不鮮明であった部分を、原本で、はっきり見ることが出来た。以下で、その、あらたに気が付いた諸点を箇条書きにしてみる。
まず、3輪車の案は、平石久平次が大津にあった彦根藩の倉庫の管理をしていた役職であったことを考えるとハッキリする。大津には山車が出る大きい天孫神社の大祭があり、それは、多くのものが3輪車なのだ。つまり、平石久平次時光が3輪車の人力乗り物を創ったところまでは、ほぼ疑いの余地がないと思われる。そして、それは、ドライジーネのように地面を蹴って進むものではなく、現代の自転車と同様のクランクを備えていた。これだけでも充分進歩的である。フランスで自転車にクランクとペダルの駆動方式が取り入れられるのは、1861年のミショーの発明まで待たなければならない。陸奔舟車のほうが129年古いという圧倒的な古さなのだ。
ここまででも、平石久平次時光がいかに自転車の歴史の中で、看過できない人物であるかはあきらかである。そこで、クランク式のH.P.V.のパイオニアとして、ハンス・フォン・ドライスの先駆けとして、ハンス・レッシング博士とトニー・ハドランド氏のBICYCLE DESIGNに図入りで(3輪車案の図)紹介をした。
しかしながら、私はここで、原本をくわしく検証したうえで、最終的な平石久平次時光の制作した乗り物は、『2輪車+2つの補助輪』のものであったと考える。理由は以下の通り、
*彼が漢詩まで書いて図を付けた表紙の図の遊行車は、駆動輪として考えるには車輪径が小さく描かれていること(小さすぎる)。平石久平次時光が『漢詩をその自らの創作品に与えたということは、その漢詩が書かれているところの図が『最終形』と考えてよいだろう。その図では、クランクの中心軸と陸奔舟車の両脇の2輪とは同一直線状には無い。つまり、彦根図書館所蔵の、梶原利夫氏監修・製作の原寸模型のレイアウトはありえないことになる。
さらに2つの軸の高さを見ても、その遊行車の軸はクランクの円盤の軸よりはるかに低いところへ付き、さらに軸は前方にある。これでは遊行車をクランクからのシャフトで直接駆動することが出来ない。つまり梶原利夫氏の説による後ろ2輪駆動の3輪車のレプリカは平石久平次時光が考えていたものとは別物と結論付けざるを得ない。
*仔細に平石久平次の原図を見てみると、中に『別案とでも言うべき、遊行車に『覆いが付いた図』があることがわかる。(彼の自筆で「小箱ニシテ」と図の脇に筆で書き込まれている)彼は最初はそれが必要だと思った。そして、のちにそれ無しでやれると思ったようだ。これはどう考えたらよいのか?なぜ、この図面が描かれていたのか?
理由は簡単である。2輪車として製作し、その乗り物が傾いたとき、遊行車の軸が曲がったり、折れたりするのを、リヤカーのように車輪の軸の両側を、外側の軸端も覆いの構造体に固定すれば強度が上がると考えたのだろう。
ここまで、順を追って見てくると、平石久平次時光の創った乗り物は、『補助輪付きの2輪車』で、限りなく我々が考える自転車に近いものだと考えるのが妥当だろう。
さらに付け加えれば、平石久平次時光の創った乗り物は、『竹田近江の陸船車のように、舟に見せかけようとしていない』。表紙の完成図でも、あるいは上から見た図でも、おどろくほど簡単で『ただの全外皮応力構造(一種のモノコック)のようである。
そのような理由ゆえ、彼は『新製陸奔舟車』として、それまでの『陸舩車』とは違う名称を与えた。この名称も、いままでの表記『陸舟奔車』というのは感心しない。
私は個人的には、ハンス・フォン・ドライスのドライジーネが最初の自転車であろうと、平石久平次時光の陸奔舟車が世界最初の自転車であろうと、どちらでもかまわない。ただ、20世紀の日本の科学的、技術的な発展の基礎にある、ひとつの重要な科学的姿勢とでも言うべきものが、すでに平石久平次時光のなかに見て取れるのがじつに興味深い。さらに、一般には世界にむけて国を閉ざしていた沈滞した社会と思われている江戸時代が、じつは和算でライプニッツに匹敵するようなことをやっており、ドライジーネと競えるほどの乗り物をはるか前に創っていたという事実は、もっと広く世に知られてよいことだと思う。
小池一介