摩利支尊天のお話

長松院山門横の『可休庵』には、當山鎭守”摩利支尊天”が祀られています。

自転車研究家、仏教者であり、在日英国人倶楽部「東京ブリティッシュ・クラブ」の元名誉書記、また古い建築資材をレストアし、インテリアやエクステリアに用いるスペシャリストとしても知られる小池一介先生がご寄進くださったもので、作者は日本絵画家、歴史画の大家安田靫彦(やすだゆきひこ)画伯。

 

 

 

こちらはそのお姿。

今にも駆け出しそうな荒々しい猪の上に跨がりながら、涼しいお顔で弓矢を構える摩利支尊天。

お名前は知っていてもあまり存じ上げない方も多い神さまのお一人であることも事実かと思いますが、なんとこの摩利支尊天、霊験あらたかななんともありがたい神さまなんです。

摩利支尊天に興味ある方、小池先生の摩利支尊天講座をご覧ください。

 

摩利支天様について

 

摩利支天という佛尊は、あまりみなさんなじみがないかもしれません。ひとつには、摩利支天を信仰している人は、あまりそれを公に語らないということがありました。

 

『誰にも気が付かれず、いつのまにか目的を達成する』そういうことが摩利支天様を信じていると可能であると信じられてきました。

 

そのお姿は観音様が男性のお姿であったり女性のお姿であったりするのと同様に、男性の場合と女性の場合があります。これを密教のほうでは『通性で変現自在』と言います。その時の必要に応じて、どちらのお姿でも現れる。ある時は、腕は2本、ある時は6本、摩利支天華鬘経では38臂のお姿が説かれています。古代インドでは、その神様や佛尊の多くの能力を表現するのに腕をたくさん描くことがありました。

 

こうした考え方は仏教の初期に、すでに現れています。阿含経典の「法を依拠となすⅢ」のなかにこういう一節があります。『たとえば、一身が多身になり、多身が一身となり、あるいは身を隠し、あるいは壁を通り、垣を通り、山を通り、しかも、障礙無き事、あたかも空中を行くがごとく』という言葉があります。まさにそうした境地を摩利支天様のお姿にみることも出来ると思います。

 

お顔はひとつで描かれるときは柔和なお顔が多く。その場合は団扇を持ちそこに仏教の卍の中に日輪が4つ描かれます。弓や槍をとる場合は憤怒のお顔。お使いはイノシシで、古代イランや古代インドでは、イノシシは神聖な動物でした。イランの神話の英雄神バフラームはイノシシに姿を変えたりします。ヒンドゥー教ではヴィシュヌはやはりイノシシに化身したりします。

 

多くのお経を古いインドの言葉から漢訳したことで名高い不空三蔵様は、王子の病気の快癒を祈願して、摩利支天さまに王子の守護を祈念したことが古文書に残されています。

 

摩利支天様にゆかりのある有名な人に大石内蔵助がいます。四十七士のお墓がある東京の曹洞宗のお寺、泉岳寺には、大石内蔵助が信じていた摩利支天様の尊像が厨子に入ってお祀りされています。ほかにはどういう人がいるでしょうか?じつは織田信長の父親織田信秀も信仰しており、道元禅師も一時期身を寄せた京都の建仁寺の塔頭の摩利支天堂が、天文の兵火で焼けた落ちた後、摩利支天堂を建て直しています。

 

自ら開門して講和に応じたほかには、一度も敗北によって落城することのなかった名城、小田原城の天守閣には、北条氏が代々大切にしてきた摩利支天様がお城を守護するのにお祀りされています。その摩利支天様の尊像は、一度、小田原城の天守閣が失火により火事になった時、焼け落ちた灰の中からまったく無傷で見つかった縁起を伝えています。

 

あまり知られておりませんが、徳川家康も静岡の光明山で敵に追われて命が危うかった時、摩利支天様を念じて岩の陰に隠れて命拾いをしたと言われています。それ以外にも、摩利支天経には『この佛尊を信じているものは、毒や人の呪いなどからも逃れられ守られる』と言われており、信長が家康を供応した時、じつはそこで家康を毒殺する計画があり(家康自身、たいへん熱心に薬や毒を自分で研究していました)、光秀はわざと腐った魚を出してそれを密かに警告して家康を救ったという説もあります。その恩義があるので、日光に家康は『明智平』という地名を残したという人もおります。真実は歴史のはるかかなたの闇の中ですが、家康は摩利支天様に『何度か救われた』と思っていたようで、静岡に家康は摩利支天堂を建てました。その堂宇は明治の神仏分離で寺から八千矛神社に改修され、御本尊の摩利支天像は、現在、葵区の臨済寺に遷されています。家康は合戦の時、1寸2分の摩利支天像を兜の中にいつも入れていたと言います。

 

他に有名な人で摩利支天様を信じていた人たちは、加賀の前田利家、毛利元就、今川義元、山本勘助、日本の武術の源といわれる、天真正伝香取神道流の宗祖、飯篠長威斎、タイ捨流の宗祖丸目徹斎、日本兵法三大源流のひとつ影流の祖、愛洲移香斎久忠、念流の祖、念阿弥慈恩、宝蔵院流槍術の祖、宝蔵院胤栄、新陰流剣術の祖、柳生宗矩らも摩利支天様を深く信奉していました。

 

そのわけは、摩利支天様は、『身を守ってくださるばかりでなく、習い事、技術、技、学業、悟りへの導き』などもしてくださると、お経に書いてあるからです。

そこには『官位爵禄 一切技芸 如意満足』という摩利支天様の御本誓が書かれています。

 

さて、摩利支天様は古代インドから信じられてきた神様であると先に書きましたが、ヒンドゥー教の方でも今でも信じられています。かなり古くから知られていた神様で、インドの人たちが昔、今のイランやインドへ入って来る前から信じていた神様だと考えられています。それが太古の昔、イランの人たちとインドの人たちにしだいに、文化的に分化する中で、それが、ほとんど姿を変えずにインドでマリーチとして信じられてきました。

 

これらの大昔の神様たちと、その信じる人たちは、教えが仏教とうまく共存する場合、吸収され、仏教に合流していったと考えられています。それらの神様たちは佛尊として、マンダラの中で『天部の佛様』として、争うことなく融合されたのです。ほかの天部に入られた佛尊には、帝釈天様、毘沙門天様、吉祥天様、弁才天様などがおられます。

 

新しい教え、仏教がお釈迦様によって説かれた時、仏敵が攻撃してきたと言われていますが、帝釈天様がそれら仏敵と戦ったとき、たいへん苦戦をした。そのとき、摩利支天様が加勢をしたことによって、仏教の側は勝つことが出来た、と言われています。そのために摩利支天様は仏教を守る『護法善神』と言われています。

 

これはどういうことでしょうか。おそらくは摩利支天様を信奉する人の多くがお釈迦様の教えを受け入れ、初期の仏教に共鳴して、彼らを支持し、助けたということだろうと私は思います。

 

さて、もう少し、それでは初期のお釈迦様の教えと摩利支天様の、共通項を見てみましょう。

 

摩利支天様は『陽炎』(かげろう)、そして太陽の外側の『威光』(輝く光の発散)の神格である、と言われています。かげろうというのは透明で空気がゆらゆらしている。そのように、何も見えないにもかかわらず、何もないとは言えないものです。たとえば、かげろうは太陽のちからで生まれますが、そのようなエネルギーは、たとえ見えなくても確実に存在します。そうした『見えないけれども、確実に存在するちから』というものは、自然の中に、我々が宗教的なこころをもって眺める世界には意外に多いのではないでしょうか。

 

また、日輪、月輪も摩利支天様を見ることは出来ないが、摩利支天様は日輪も月輪も見ることが出来るとお経に書いてあります。これはどういうことでしょうか?たとえば、摩利支天様を信じている人がいたとします。その人には摩利支天様はみえなくとも、摩利支天様のほうは、すっかりその人のことを見ていらっしゃる。誤魔化すことは出来ないのです。それを生じさせているのは、それを信じている人なのですが、その対象はうそ偽りのない正しい生き方を求めてくる。

 

摩利支天様はときに、団扇を持った姿で描かれますが、そこには卍と4つの太陽が描かれています。これは『宇宙のちから、法の力』と重なるところがあります。インドでは、これは魔除け、幸福の印なのですが、それは宇宙の力が加勢して、渦を巻いて流れ込んでくるイメージと言ってよい。初期仏教では誰も止めることのできない回転する法輪が、仏像登場前の仏教徒のシンボルとして使われましたが、それも宇宙の法が味方してくださるということで通じるものです。

 

もし、みなさんが戦国時代の鎧甲冑などをご覧になる機会があれば、どこかに団扇の印がないか、探してみてください。もし付いていれば、その侍は摩利支天様を信奉していたのです。また、摩利支天陀羅尼呪経のなかに、この経の陀羅尼あるいは小さい尊像を書き写し髪の毛の『まげ』の中に入れておく、あるいは衣の中に入れておけば、一切の悪いものが害を加えてくることがないようにその人を守る、と書かれています。また、どこかへ行く時にもその道中を守る、と書かれています。つまり、摩利支天様は『お守りの元祖』とも言えるのです。

 

また、かげろうは時として『蜃気楼や逃げ水』のようなものを映し出しますが、原始仏典ラトナーヴァリーにこういう一節があります。

『53節、遠くにある人々によっては、この世界は実在するように見えるが、近くにある人にはそのように見られない。この世界は無相である。かげろうのように』

『55節、かげろうを見て、これは水だと考えて、そこに行き、そこに水はなかった、といって、その水に執着するならば、その人は実に愚かである。』

『56節、このようにかげろうに等しい世界が存在する、あるいは存在しない、と固執する人には、この迷妄がある。迷妄がある間は解脱しない。』

これは、なかなか難しい議論ですが、摩利支天様を信じていた人たちは、常日頃からかげろうに思いを巡らしていて、このお釈迦様の言葉に、ふと悟るところがあったのではないでしょうか。常に目標を立てて、精進し、前進する。逃げ水に追いつくことはないのです。その追いつけないものに近づこうと努力するその姿、そのこと自体に仏教徒としての真実があると言えます。道元禅師はそれを修証一等(修証一如)と言いました。こうした話は法華経の化城喩品のまぼろしの城の話にも出てきます。

 

摩利支天陀羅尼呪経には『無人能見我無人能捉我』という一言があります。これは『誰も私を見ることも,捉えることもできない』、ということで、そこで、忍者なども摩利支天様を信奉したのですが、ここも、じつはお釈迦様の一言と対応するところなのです。法句経の420番に次のような一言があります。『もろもろの神もガンダルバ(きわめて鼻のきく神様)も、人も、彼の航跡を知ることがない。かかる漏の尽きたる阿羅漢を、我は婆羅門と呼ばん』。これはどういうことかというと、『神様にも人にも自分の行った善なる行いは知らせなくてよい』ということです。『行った善はいつまでも引きづらない』。これは禅のほうでも申します。『自分はこれだけの良いことをした』と、いつまでも過去のことに満足してはいけないのです。鳥の飛んだ跡が見えないように、たゆまない努力の連続で彼岸に到達する。

 

また、初期の佛典、マッジャ・ニカーヤにこういう一節があります。『この修行僧は悪魔を盲となし、悪魔の目を根絶し、悪魔に見られないようになった者、世間における執着をわたった者と呼ばれるだろう。その人は安心して行き、安心して立ち、安心して坐し、安心して臥す。それはなぜか?悪魔の領域に入らないからである』。

つまり、悪に踏み込まない人には、悪い存在も、つけこむことが出来ないのです。

 

摩利支天様を大切に道場にお祀りしている天真正伝香取神道流では、入門に際して、ケンカをしないこと、賭け事や悪い場所には近づかないこと、などを約束し、血判を押します。

 

また、摩利支天経には『不爲人欺誑』という言葉がみえます。これは、ふだん多くの人は自らを偽って神様や佛様に祈る人がいますが、摩利支天様はすべてを『見通す』ということです。どんなにたくみに誤魔化しても、自分のこころの奥底では、それに気がついている自分がいます。これは仏教の中で『唯識』という分野でこまかく説かれています。涅槃経には2つの白法(ひゃくほう)というのが説かれています。私たちは懺悔文というのから日々のお勤めをはじめますが、懺というのは内ではずかしいと思うこと、愧というのは他人にはじるで、懺悔のちからは強大なのです。すべてを見通す摩利支天様に羞じるところのない行いで、あらためるところは懺悔して、純粋な新しい自分を踏み出すきっかけとなります。そうした人は強いのです。やましいところがあれば、それは即座に弱い所となり、自らも全力開花できません。そこで懺悔し、純粋に澄んだ境地になれた人には、宇宙の法も佛尊も人々も味方してくださいます。

 

そのようなことを思いつつ、お参りをなさってください。かならずや、仏法を守護する摩利支天様のご加護を受け、諸願成就されるものと思います。皆様が幸福な人生を実現されますように。

 

                                合掌  小池一介

 

 

小池先生、ありがとうございました。

この講座で思うところのあった方、長松院可休庵へお参りください。

新しい自分と出会えるかもしれません。