未だ答えが出ず、模索しながら書いております。
乱文お許しください。
先日、あるお檀家さんからお電話をいただいた。
妹がガンで余命いくばくもない。
先日よりホスピスに入ったのだが、あと数日だと宣告された。
亡くなったらお葬儀をお願いしたい、という旨であった。
まだお若かった妹さんのことを思い返し、了解しましたとのお返事をして受話器を置いた。
そして暫く考えた。
坊さんの務め、お寺の役割とは一体なんなのか。
「いま亡くなりました。枕経おねがいします」とあれば、すぐさま参上してお経一巻お挙げもするが、この度はまだ亡くなっていない。
生前にお会いし、お話を聞き、お声をおかけし、手を握り…。
いや、何もできないかもしれない。
きっと何もできないであろう。
しかし何もできないからといって、何もしなくていいのだろうか?
自問し、煩悶した。
そして決意した。
電話してみよう。
何ができるかはそれから考えよう。
ご家族に電話すると、忙しい最中の様子であった。
「長松院でございます。もし事情が許すなら、いまのうちに葦毛とさんにお会いしてお話をさせていただきたいのですが」
すると家族の方は「今は痛みに耐え切れず、お薬で眠っております。それは難しいかもしれません」と答えられた。
私はお詫びを申し上げて電話を切った。
無力感に苛まれた。
僧侶は医者ではない。
病気を治すことはできない。
しかし傷付いた人、悩んでいる人、苦しんでいる人を癒すことはできる。
妹さんもガンがわかって死期が判明した時、きっと苦しまれたはずだ。
けれどその時に話を聞きたかったのは、僧侶である私ではなかった。
これは私の常日頃の怠慢が招いた結果なのではないか?
口では「なんでもご相談ください」などといっているものの、その心は檀家さんには通じていなかったのだ。
頭を殴られたようなショックを受けた。
葬式仏教を批判する資格など私にはない。
私は一体何をしているのだろう??
数日して、妹さんの死を伝える電話があった。
いつも通り葬儀を済ませ、ご遺族となったご姉妹に向き合った。
その際に、ご家族からこう云われた。
「お電話で、こちらに来てお話したい、といっていただいた時、本当に嬉しゅうございました。痛みに耐えかね、強いお薬で眠っておりましたのでお断りいたしましたが、お気持ちありがたく頂戴いたしました」
その一言に、私は救われた。
心が軽くなったようであった。
私はご家族にこう約束した。
「今後は、生きている間に住職と話がしたい、最後に『大丈夫だよ、怖くないよ』といって送ってもらいたい、と思っていただけるような僧侶を目指して参ります。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」と。
まだ生きているものが、死に行くものに対してかけられる言葉とは何だろう?
今際の際に僧侶に欲することとは何なのだろう?
そもそもこの問い自体が不遜で不敬なものなのだろうか?
死の淵に瀕した方に何かしてさし上げれることなど本当にあるのだろうか?
それとも私の単なる思い上がりか?
これは私が生涯をかけて解かなければいけない”公案”である。
妹さんのご冥福をお祈りしつつ、今後の精進をお誓い申し上げます。
どうぞ安らかにお眠りください。 合掌
コメントをお書きください
西宗弘子 (水曜日, 11 5月 2016 00:11)
最近、安穏寺さんの座禅会に時折行かせていただき、健康なうちに仏教に触れることの喜びを感じております。きっかけは、四国八十八ケ所巡り。旦那とともに、仏教の通信講座を受けたり、原始仏教の講演を聞きに行ったりしましたが、覚元さんのお話が実に面白く六角堂に伺うだけで心が落ち着くのです。やはり、お釈迦様の教えは生きているうちに少しでもたくさん聞くべきと思いました。