位牌堂を掃除していたところボロボロになった経本のようなものを発見した。
中を開いてみると、そこには「彦根長松禅院記」と書かれ、漢文が記されている。
「これは。。。もしや。。。。」
そこには長松院の成り立ちが詳細に記されていた。
しかし悲しいかな、読みこなすまでの力量が私にはなかった。
浅才非学を悔やんでもしょうがない。
(きっといつか仏縁があって、この文書を読み解いてくださる方が現れるに違いない)
そう信じて、その文書は大切にしまっておいた。
また後日。
同じように位牌堂を掃除していると、土埃にまみれた古い位牌が二つ、目に止まる。
一つには”凌空院殿前上林大官抜山道華大居士”、もう一つには”松壽院殿前上林大官華屋泉英大寂門”の戒名が、そして大居士には慶長六年八月十六日、大寂門には寛永五年十一月十日とそれぞれ没年月日が刻まれていた。
過去帳を繰ってみても、これらの戒名は載っていない。
しかし院殿大居士、大寂門である。
名のある武士のお位牌なのではないか。
ところがこの二人の戒名、ネットで調べても全くヒットしない。
誰のものかもわからぬまま、供養だけは続けていた。
と、これがどちらも三年ほど前の話。
やはり仏縁というものはあるのですね。
この文書を読み解いてくださり、また位牌の人物を特定してくださった方があります。
野田浩子先生。
彦根在住の歴史研究家で、以前は博物館で学芸員をされていた方。
現在は退官されて、ライフワークである彦根の歴史を深く掘り下げるお仕事をされています。
近々本を上梓されるとのことで、直政公灰塚と出陣之繪圖を挿絵として使いたい、と来山されて仏縁を得ました。
その際色々質問ぜめにしてしまい、野田先生もさぞ閉口されたかとは思いますが、物知らぬ山僧に色々とご教授くださいました。
数ある質問の中でやはり気になっているのは長松院の歴史。
話の途中で「はっ!」と思い出し、彦根長松禅院記とお位牌をみていただきました。
先生はつらつらと長松禅院記に目を通され「写真に収めて読み下しを書き出します。位牌も心に留めておきますね」とおっしゃり、その日はお帰りになられました。
私も私なりに先生に教えてもらった図書館にある「寛政重修諸家譜」という本で戒名を調べたりしましたが、やはりはかばかしくありません。
未だ仏縁熟さずかな、と思っていた矢先、昨日野田先生から「書き下し文できました」との一報が。
その際「お戒名の方々、判明しました」とのこと。
なんと!
早速ご来山いただき、資料をいただきました。
(「彦根長松禅院記」に関しては、別コーナーでアップいたします)
さて、この戒名についてですが、”凌空院殿前上林大官抜山道華大居士”は河手(川手)良則公、”松壽院殿前上林大官華屋泉英大寂門”はその孫の良富公ではないかと先生はおっしゃられます。
その根拠として
①戒名にある上林大官という官位は中国風のもので日本風にいうと”主水”。そして河手家では良則公も良富公も主水を名乗っていたということ。
②院殿大居士も院殿大寂門もそれなりの家柄でない限り、つけられない戒名であるが、河手家は元は武田→徳川の家臣であり、家康の名により直政公の姉である高瀬姫を娶り直政公に使えた筆頭家老。家柄は申し分ない。
③二人の没年月日が位牌に記されているものと合致する。
これらのことから推察するにおそらくこの二人で間違い無いであろう、とのことでした。
河手良則公についてはこちら
左が河手良則公御位牌。
右が河手良富公御位牌。
直虎公の大河の年に、井伊直政公ゆかりの、しかも義理の兄の位牌と判明したことに軽い興奮と深い因縁を感じております。
これからも懇ろにご供養してまいります。
なお、良則公のお墓は近年南彦根で発見されたとか。
近々に墓参に行ってまいります。
野田浩子先生、お忙しいなかお時間を割いていただきまして、ありがとうございました。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
合掌
コメントをお書きください
kiyo (水曜日, 27 9月 2017 18:04)
test