この歌を初めて聴いたのは、法相宗台本山薬師寺管主故高田好胤猊下のお説法の中でした。
なんとも世の真実を面白おかしく切り取ったもんだなあ、とそれこそ手を打って感心したものでした。
我々は皆独自のルール、独自の見方で世の中を見ています。
手を打てば「誰か喜んでいるのかな?」と思う人も居れば、「神様に拝んでいるのか、殊勝である」と感心する人あり。
犬はびっくりしてしゃがみ込み、蚊は殺される!と一目散。そしてこれが釈尊の言う『我見』つまり色メガネで世界を見ると言うことです。
これは我執と言い換えてもいい。
我という、ありもしないものをあたかもあるように勘違いするから、自分ルールが発生し、苦しみを発生させるのです。
では、禪において「手を打たば」どうなるのでしょう?
答えが知りたい人は一緒に座ってみましょうか。
答えがわかるかもしれません。
英語にしようかと思ったのですが、対応する言葉が見つからなかったので割愛しました(笑)
日本語とは本当に豊かな言語ですね。
降ってくる雨はどれも同じで、雨は我々の都合や気持ちなどお構いなしに降ってきます。
”嫌だなあ”と思う長雨も、受け取り方によって全く意味が違ってきます。
雨降らば降れ 風吹かば吹け は一休さんの大悟の下句ですが、その心境にあれば梅雨も五月雨も麦雨も黴雨も全て同じ雨。
恵みも迷惑もありません。
(最近は線上降水などという厄災もありますけどね)
あなたの心に降る雨はどんな雨ですか?
言わずと知れた文豪、武者小路実篤の言葉。
やらなければいけないこと、わかっちゃいるけど始められない。
やめなくてはいけないこと、わかっちゃいるけどやめられない。
よくありますよね。
偉そうに述べる、かくいう私。
全くこの通りなのです。
でもいつか、本当に立たなければならない時に、
『まあ、もう少し坐ってゐよう、さあ、俺も立ち上がるかな』
となれるかどうか。
坐禪も打坐と経行とでバランスが取れていますからね。
生きる、ということだけでも見方が変わるとこんなに違うんですね。
面白い考察だと思います。
しかし、禪において生きることは喫茶喫飯。
さらに言えば、朝起きて、昼働いて、3時のお茶をして、夜寝る。
これが禪的な生き方です。
どのように生きるか、なぜ生きるのか、自分とは何か、問いそのもの、問い続けることそのものは大切なことです。
しかし、その問いのみにこだわり、悩み、立ち止まっては意味がない。
猫はそのままで猫<(*ΦωΦ*)>
犬はそのままで犬U・x・U
人間だけがそのままでいられない。
犬猫のように生きろ、という意味ではありません。
しかしありったけの自分で生きる。
一瞬一瞬を懸命に。
お茶も真剣に飲むし、ご飯も真剣に食べる。
これこそが禪であり、生そのものなんですね。
気になった方は長松院で一緒に座り、掃除して、お茶を飲みましょう。
アイルランドの劇作家、ノーベル文学賞受賞 (1856~1950)バーナード・ショウのことば。
かく言う私も、自分を探しに外に出ていったクチ。
十年ほども探し歩いて、ようやく外にそんなものはないと気づき、今度は内なる自分を探してお坊さんになり二十数年。
そしてこの言葉に出会いました。
もう少し早く気づけたらよかった…。
多くに人はこの問いに『そりゃ自分のためでしょ』というでしょう。
それは確かにそのとおり。
自分の人生、悔いのないように一所懸命に生きる。
当たり前のことです。
しかし我々は、自分のためだけにしか生きられない、そんな人生は寂しいものだということも同時に知っています。
親があり子があり、友があり伴侶があり。
太陽があり星があり、自然があり物質があり。
それら全てのものが存在するから、自分が生かしていただけていることを知っています。
だから少しだけ、自分の周りの人のために生きてみましょう。
できる範囲でいいんです。
そうすれば世界は少しずついい方に変わっていくと思います。
さあ、今日は誰の為に生きようかな。
久々の住職オリジナルの言葉です。
これは常々思っていることで、心がけていることでもあります。
私がまだ学生だったころ、中国語の先生からこのように言われたことがあります。
「お金や財産は配って仕舞えばなくなります。しかし、知識はいくら配っても決して減ることのない一生涯の宝です。今のうちにたくさん知識を貯めなさい」
今、この言葉は私の中での肥やしとなっています。
そして出た結論は『知識は智慧に昇華しなければ誰かのものにはならない』
德も同じタイプのものだと考えます。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(宮沢賢治)
自己が他己に得をもたらせば、他己はまた別の他己に得をもたらします。
そしてその得=幸せの連鎖はやがて世界全体を巡ってそれがいつしか個人の得=幸せとなり自己に返ってくる。
世界が不安定になっていく今日この頃ですが、人は自分のためだけには生きていけない社会的生物なのです。
願わくばこの功德を持って遍く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に幸せでありますように。